全ての始まりのその前に 〜スチュアート〜






―― 絶対的機密であることを示すギルカタール国王の印によって完璧に封がされた一通の書状が、全ての始まりだった・・・・
















ガシャンッ!

夕闇が入り込んだ部屋にガラスの花瓶が砕け散った音が響いた。

力任せに壁に花瓶を投げつけたスチュアートは、憎々しげに砕け散ったそれを見下ろす。

原型をとどめぬほどに床に散らばった破片に、血を落としたように夕陽が反射する。

「っくそ!」

ガンッ!

蹴り上げた机が勢いよく転がり、積んであった書類が一気に散乱した。

舞い散った書類をよけもせず、部屋を横切ってスチュアートは乱暴にベッドに仰向けに転がった。

「よりにもよって、この俺に・・・・!」

吐き捨てた言葉は、血を吐くような、という形容以外できないような苦々しいもので。

(婚約者候補、だと?)

数日前、国王の印で封をされた書簡が届いた時、酷く嫌な予感がした。

それが見事に当たった事が悪夢だった。

『王女と取引をするから、その間、婚約者候補になれ』

断れるわけもない、国王からの絶対的命令に、それでも逃げ出したくなった。

「・・・・アイリーン」

掠れるほど小さな声で紡いだ名は、子どもの頃のスチュアートにとって世界で一番大切な名だった。

そして、それは今も変わることはない。

ただ、口にしただけで幸せになれた名前が、今は切り裂かれるような痛みをもたらすようになっただけだ。

大切で、大事で、何より愛おしかったから諦めねばならないと思った少女。

それでも彼女の側から離れるわけにもいかず、距離を取るだけが精一杯だった。

タイロンと共に切り捨てることで、いっそ憎まれればいいと、そう思って。

そしていつか、彼女がタイロンを選んで幸せになっていく様を見ていればそれで満足だと思おうとしていたというのに。

「今更・・・・!」

婚約者になるかならないかは別としても、候補となればアイリーンとの距離はどうしたって今より縮まってしまう。

近くなれば、この数年距離を置いて凍らせようとしていた想いなどいとも簡単に氷解してしまうことなどわかっていた。

実際、昼間、久しぶりに正面からアイリーンと向き合った瞬間、全身が震えた。

子どもの頃と変わらない瞳に、凍るほどの冷たい視線を乗せていても。

敵意を隠そうともしない空気を纏っていても、彼女はアイリーンだった。

目を覆うように、スチュアートは顔に手をあてる。

脳裏に蘇るのは、どうしたって唯の一人だけだった。

スチュアートの世界で、たった一人、全ての女。

「アイリーン、アイリーン、アイリーン・・・・!」

繰り返せば繰り返すだけ、あふれ出てくるのは愛おしさと絶望的な苦しみ。

彼女が王と交わした取引の25日間。

その25日間はスチュアートにとって、酷く苦痛で、酷く残酷で、酷く甘美な時間になるだろう。

ぎりっと噛みしめた唇から、一滴、血が零れた。
















―― 取引終了まであと25日。

           スチュアートにとって、この世で一番苦痛な時間の幕開けのはずだった


























― あとがき ―
スチュアートはアイリーンが全てですから。